【酒井宗雅茶会記】 (ゆうこう日記) 天明 7年 3月13日 茶入 丹波耳付 4月 6日 茶入 丹波焼 銘 「千年の山」 8月17日 水指 丹波鳶口水指 9月25日 水指 丹波焼クダ耳 12月19日 茶入 丹波 天明 8年 2月16日 茶入 丹波焼 銘 「澪標」 *但し、天明8年2月16日 茶入丹波 銘「澪標」に関して、亭主は丹波焼と言ったが宗雅公は、「膳所焼と見る」と書いています。 【平瀬家茶会】 明治15年 2月5日昼 茶入 丹波焼 銘 「やまといち」 【東都茶会記】 「為樂庵歳暮茶会」 大正 2年 12月29日 茶碗 丹波焼 銘 「鬼が城」 *丹波焼茶碗 銘「鬼が城」は旧益田鈍翁所持、現在千家名物となって収蔵されています。 「暮春茶会」 大正 4年 4月27日 茶入 丹波焼瓢箪 遠州銘 「松島」 「益田克徳 於無為庵」 茶入 丹波焼 遠州銘 「老坂」 「為樂庵 不昧忌」 大正 5年 5月25日 茶入 丹波焼 不昧公銘 「野月」 「幽松募開席」 大正 6年 4月28日 茶入 丹波焼 松浦鎮信銘 「春雨」 *丹波焼茶入「春雨」は兵庫陶芸美術館蔵です。 「鷹が峰大茶会 於大虚庵」 大正 6年 11月25日~ 茶入 丹波焼 広口耳付茶入 *「広口耳付茶入」は現在個人蔵、品格のある茶入です。仁清の香りがしてきます。 「同 於本阿弥庵」 茶入 丹波焼 詩銘 「紅葉」 *「紅葉」は、サンリツ服部美術館蔵です。 「鷹が峰大茶会 於騎牛庵」 大正 8年 11月13日 水指 丹波焼共蓋 銘 「地蔵堂」 #
by sasayuri2209
| 2009-08-10 21:37
| 茶会記使用された丹波焼
『たんば・たむば』という茶道具がどこでどのように使用されてきたのかを、天王寺屋会記から昭和初期の茶会まで現存している会記を読んで作成した私記録から、認識していきたく想う。 (ただし、『宗湛日記』の天文13年2月24日~『松屋会記』慶長11年10月16日までは、水指が「土の水指」と記載されているだけで何処の焼物かは不明である。) 【有樂亭茶湯日記】 慶長16年3月2日より同19年8月16日に至るおよそ3年半、99回を簡単に記録したものである。 慶長16年(1611) 3月29日朝 茶入 丹波焼肩付 5月29日 茶入 丹波焼肩付 6月 4日朝 茶入 丹波焼肩付 *織田有楽使用 丹波焼肩付は個人蔵です。 慶長17年(1612) 卯月8日昼 茶入 手焼丹波茄子 (有樂手造り) 卯月16日 茶入 手焼 7月29日昼 茶入 手焼なすび 11月19日 茶碗 手焼黒茶碗 (樂?丹波?) 慶長18年(1613) 正月12日 薄茶 かすがい茶碗 6月27日晩 茶入 手焼 この茶湯日記によると、有楽は自作の茶道具を使用していた。また、表千家五代髄流斎宗左が記した書によると、樂の茶碗で長次郎作となっている「りんざい」も有楽作との記録がある。 このことより有楽は、自ら茶道具を製作・使用していたことがわかる。 【伊丹屋宗不筆記】 6月22日朝 水指 丹波焼水指 茶入 肩付丹波焼 (織部銘 「小うた」 織部好みの作品で、新兵衛に造らせた茶入である。) 2月 6日昼 茶入 「小うた」肩付 正月23日昼 茶入 「小うた」肩付 6月24日 茶入 「小うた」肩付 正月25日朝 水指 丹波焼水指 但し、「小うた」肩付丹波焼は、古田織部が台徳院様(秀忠公)に御上げ後に銘をつけたと宗不筆記に記されているので、年代は慶長だろうか。 【宗圃居士道具置合】 (小堀遠州) 寛永 7年(1630) 5月23日 茶碗 丹波焼 水指 丹波焼 寛永 8年(1631) 9月 4日 水滴 丹波焼 9月22日 茶入 生埜(丹波焼) 水滴 丹波焼 10月2日 茶入 生埜 *遠州好み丹波焼茶入「生埜」は湯木美術館蔵です。 【江岑宗左茶会記】 寛永17年(1640)8月19日より始まる。 明暦 1年(1655) 2月 9日朝 水指 をのはら焼 万冶 2年(1659) 4月30日昼 水指 丹波焼 寛文 8年(1668) 7月27日朝 茶入 丹波焼尻膨 #
by sasayuri2209
| 2009-08-10 17:24
| 茶会記使用された丹波焼
西庵氏のコレクション(日本の古陶磁)9点が公開されます。 平成21年7月1日(水)~5日(日) 姫路書写の里・美術工藝館 一般展示室 大変珍しい丹波壷・・・丹波焼火襷大壷 桃山時代 可愛い丹波耳付・・・丹波焼耳付茶入 江戸時代 丹波焼火襷大壷は1度他所で展示されてから、所在がわからなくなっていました。西庵氏が書写の里美術工藝館に寄贈し、やっと目にすることができます。 しかし丹波で火襷? 備前では藁等を塩水につけて壷の出来上がりを考えながら貼り付けていくそうですが、丹波では今まで火襷の作品は、この一点しか存在していません。他の桃山丹波に比べると、首から肩の線に少し違和感を覚えます。 箱書きは桂又三郎先生です。 丹波焼火襷大壷 桃山時代 さてこの茶入、西庵氏より丹波焼として寄贈されていますが、遠州風でもなし、織部風でもなし、耳は丹波風ですが、さても悩ましいところです。箱が無いため、はっきりと判らないそうです。 丹波焼耳付茶入 江戸時代 #
by sasayuri2209
| 2009-07-01 19:18
| 美術館
六古窯における丹波焼は、室町期古窯が兵庫県多紀郡今田町の南部に集中していることから、今田町の立杭地域とされている。室町・桃山・江戸初の茶会に使用されていた「たんば」と呼ばれ茶道具類名品は、中世~の窯の発掘では、なにも出土していないようである。近世の登窯の発掘調査はいまだに未着手ののままになっている。 立杭の窯では主として生活雑器が焼かれていたと思われる。(壷・甕・雷鉢等) ところが隔冥記の文中から(金閣寺の鳳林承章和尚の日記) 寛永18年(1641)4月6日「丹波焼の鉢壱ケ給之也」 同 10月4日「丹波焼の皿十ケ今日給之、書状来也」 正保ニ年 (1645)3月12日「丹波焼花入壱丁被恵之」 と書かれている。いずれも川勝喜内(介)というご人からの贈答である。何処かで鉢・皿・花入等が焼かれていたことが判明している。 文中「朝倉山椒」が沢山届けられている。なかでも 寛文二年2月11日 半井ろ庵公(成忠)より「朝倉山椒煮一壷」 これは丹波焼の朝倉山椒壷のことである。 京の都に近い「たんばの焼物」。名品茶道具と言う作品が実在しているが、認知されていない。 矢筈水指・掛花入・茶碗・茶入等、「そこに偉大な芸術家がいて作品を生み出してきている」と断言せざるをえないほど、見事な作品が現存している。それら名品はいままで何故に身を潜めていたのであろう。大江山に隠れていたのだろうか? 「丹波の七化」とか「判らないのは丹波にしておけ」という言葉を耳にしたことがあるが、どのような作品が、何処で焼かれ、どこへ紛れ込んでしまっているのか。 それを追い求めてひたすら彷徨の日々が続いている。私論丹波焼考を進めて行きたく思っている。 #
by sasayuri2209
| 2009-06-26 22:54
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